第二章 端緒たんしょstart

 知らないベルの音だ。

 まどろみ の中でそう思った。目覚まし? でも、俺はまだ眠いのだ。昨夜は絵を描くえがくto draw のに夢中になっていて、ベッドに入ったのは明け方あけがたdawn だったのだ。

「……くん。……たき くん」

 今度は、誰かに名を呼ばれている。女の声。……女?

「たきくん、瀧くん」

 泣き出しそうに切実せつじつearnest な声だ。遠い星の瞬きのような、寂しげに震える声。

「覚えて、ない?」

 その声が不安げに俺に問う。でも、俺はお前なんて知らない。

 突然電車が止まり、ドアが開く。そうだ、電車に乗っていたんだ。そう気づいた瞬間、俺は満員の車輛しゃりょーrolling stock に立っている。目の前に見開いみひらいto open one's eyes wide た瞳がある。まっすぐに俺を見つめている少女、その制服姿が、降車の乗客に押されて俺から遠ざかっとーざかっto go away ていく。

「名前は、みつみつnectar は!」

 少女はそう叫びさけびshout 、髪を結っていた紐をするりするりwith a smooth とほどき、差し出す。俺は思わず手を伸ばす。薄暗い電車に細く差し込んさしこんto insert夕日ゆーひevening sun みたいな、鮮やかあざやかvivid なオレンジ色。人混みひとごみcrowd of people に体を突っこんつっこんto thrust で、俺はその色を強く摑む。

 そこで、目が覚めた。

 少女の声、その残響ざんきょーreverberation が、まだうっすらうっすらslightly鼓膜こまくeardrum に残っている。

 ……名前は、みつみつnectar は?

 知らない名で、知らない女だった。なんだかすごく必死だった。涙がこぼれる寸前すんぜんon the verge の瞳、見たことのない制服。まるで宇宙の運命を握っているかのような、シリアスしりあすserious で深刻な表情だった。

 でもまあ、ただの夢だ。意味なんかない。気づけばもう、どんな顔だったかも思い出せない。鼓膜こまくeardrum残響ざんきょーreverberation もすでに消えている。

 それでも。

 それでも、俺の鼓動こどーbeat はまだ、異常に高鳴ったかなっto throb ている。奇妙に胸が重い。全身ぜんしんwhole が汗ばんでいる。とりあえず、俺は息を深く吸う。

 すーっ。

「……?」

 風邪か? 鼻と喉に違和いわ かんfeeling がある。空気の通り道とーりみちpassage が、いつもよりもすこし細い。胸が、奇妙に重い。なんというか、物理的に重いのだ。俺は自分の体に目を落とす。そこには胸の谷間たにまvalley がある。

 そこには胸の谷間たにまvalley がある。

「……?」

 そのふくらみふくらみswelling朝日あさひmorning sun が反射し、白い肌が滑らかなめらかsmooth に光っている。ふたつの胸の間には、青く深い影が湖のようにたまっている。

 もんでおくか。

 俺はすとんすとん(with a) thump とそう思う。りんごが地上ちじょーabove ground に落ちるみたいにほとんど普遍ふへんuniversal 的に自動的に、そう思う。

 ………………。

 …………。

 ……?

 …!

 俺は感動してしまう。おおお、と思う。なんなんだこれは。俺は真剣にもみ続ける。これってなんというか……女の体ってすげえな……。

「……お姉ちゃん、なにしとるの?」

 ふと声の方向を見ると、小さな女の子が襖を開けて立っていた。俺は胸をもみながら、素直な感想を言う。

「いや、すげえリアルりあるreal だなあって……。え?」

 あらためて少女を見る。まだ十歳くらいか、ツインテールてーるtailツリ目つりめ がちの、生意気そうな子どもだ。

「……お姉ちゃん?」

 俺は自分を指さしゆびさしto point at 、その子に問う。ていうことは、こいつは俺の妹か? その子は呆れきったような表情で言う。

「なに寝ぼけねぼけto be still half asleep とんの? ご・は・ん! 早く来ない!」

 ぴしゃりぴしゃりslapping ! と叩きつけるたたきつけるto strike ように襖を閉められる。なんか凶暴きょーぼーbrutal そうな女児じょじbaby girl だなと思いながら、俺は布団から立ち上がる。そういえば腹も減っている。ふと、視界の隅の鏡台きょーだいdresser に目がとまる。畳の上を何歩か歩き、鏡の前に立ってみる。緩いパジャマを肩からずらすと、それはぱさり と床に落ち、俺は裸になる。鏡に映った全身ぜんしんwhole を、じっと見つめる。

 寝癖ねぐせbed hair でところどころ飛び跳ねとびはねto jump up and down た、黒く長い水流すいりゅーwater current みたいな髪。小さな丸顔まるがおround face に、もの問いたげたげto do for な大きな瞳、どこか楽しげな形の唇、細い首と深い鎖骨さこつcollarbone 、おかげさまで健康に育ちました! と主張しゅちょーclaim しているかのような胸のふくらみふくらみswellingうっすらうっすらslightly と浮かぶ肋骨ろっこつrib の影、そこから続く、柔らかな腰の曲線きょくせんcurve

 まだ俺は生で見たことはないけれど、これは間違いなく、女の体だ。

 ……女?

 俺が、女?

 突然に、それまでぼんやりと体を覆っおーっto cover ていたまどろみ が晴れわたる。頭が一気にクリアくりあclear になって、一気に混乱する。

 そしてたまらずに、俺は叫んだ。